信徒からの手紙「大いなる反省をもって」

信徒からの手紙「大いなる反省をもって」

(平成29年12月22、23日の御生誕祭の祭典中に、多くの専従者、信徒が参拝席から退席するということがありました。その行為は、小林理事長およびその執行部に対し、支持しないとの意思を表すためと伝えられています。後日、教団にある信徒から、退席した後の心境をつづった手紙が届きました。今回はその内容をお伝えいたします。)

「大いなる反省をもって」

 私は、御生誕祭にて、先生の指示のもと退席いたしました。

 私の周りは「してやったり」という方が多かったのですが、浮かない顔をしている方も多かったように思えます。私もその一人です。

 時間が経過すればするほど、明主様へのお詫びの心が強くなり、本当に申し訳なかったとの後悔の念にかられています。

 そのことをセンターで先生や信者さん方に話せばいいのでしょうが、私が退席作戦に批判めいたことを口にすることで、妻や子供たちが責められてしまい、センターに行くことができなくなる可能性が非常に高いだけに、このような形で筆をとるしか方法が思いつきませんでした。

 私は、そのような卑怯者です。この卑怯者が書くようなことを読んでもらえるとは思えませんが、もし、最後まで読んでいただければ幸いです。

 あの日、計画通りに退席し、その後の心境は記した通りです。

 私は、その後悔と御詫びの気持ちをもって御教えを拝読しました。明主様にどうしても許していただきたかったからです。

 「大いに神書を読むべし」の御教えの「読めば読むほど御神意がハッキリ判るものである」との一節が目に飛び込んできました。いや肚に飛び込んできたと言ってもいいと思います。

 その時に、明主様は御神意を覚る機会を全人類に、平等に与えていらっしゃると思いました。

 御教えを読む、読まないというのは、個人の自由だと思いますが、我々信徒は御教えを介して明主様に触れることができる。しかも、御教えを読めば読むほど御神意に触れることができるということです。

 そして、明主様と私の間には、誰も介在しません。明主様と私が御教えで直接的に結ばれるのだ、と気づきました。

 しかし、現実的に、一人で御神意を理解するのは至難の業です。これでいいのだろうかと不安が起こります。だから、同じように御教えを拝読する仲間が必要だと思いました。

 そのような御教えの勉強会が必要なのではないかと思います。私は中学生の時に入信して30年が経過しますが、そのような御教えの学び合いをしたことはありません。

 私は、御教えは大事と思っているだけで、自分で学んだことがない信者であったわけです。

 先生が教えてくれる御教えのごく一部の文言だけを知っていればいい、という信者であったわけです。

 と同時に、昔学んだことを思い出しました。それは、権威主義的パーソナリティーというものです。

 これは心理学の言葉なのですが、簡単に言うと、ファシズムに見られた社会的性格で、ある一定の社会において多数派の意見を鵜のみにして少数派を攻撃するというものです。

 そのような心が私の中にあった、と言わざるを得ません。

 特に「御教え」という世界では、専従者の先生、幹部の先生、または教主様が「こう仰った」ということを鵜のみにすることで、少数派を攻撃する、という気持ちです。

 これが私にありました。

 退席作戦に加担したことで、御教えから気づかせていただき、昔学んだことが一気に甦りました。

 そして冷静になって考えると、果たして、教主様、幹部の先生、浄霊センターの先生方が仰ることは、御教えにあるのだろうか、と疑問がわきました。

 普段、先生方からは「メシヤになりましょう」「委ねましょう」「天国に立ち返りましょう」と言われます。しかし、どれもこれも、今のところ御教えの中に見つけ出すことができません。

 「教主様が仰ることは、明主様の御教えと違わない」とも言われますし、私もそう思っていました。しかし、御教えには見つけ出せません。

 私は、いづのめ教団という狭い社会の中で、権威ある人の言うこと、あるいは大多数の方が言うことを、何の疑いもせず信じていたように思えます。

 押しつけがましいとは思いますが、特に退席作戦に加担した皆さんには、今一度、自らの目で、御教えに求めていただきたいのです。

 よく耳にするのは「明主様は御昇天後も御経綸を進められている。それは教主様が感じたことである。」というお話です。

 しかし、今のところ、そのような御教えは見つけていません。誰かが創作したフレーズではないのだろうかと仮説を立てています。

 もし、その仮説が当たっていれば、我々は明主様が仰っていないことを信じていることになりますので、明主様から離れていくことになります。

 それでいいのでしょうか。

 おそらく身近な先生に、例えば「すべての人がメシヤになれる」という目的は御教えのどこにあるのか、という質問をすると「教主様が仰っているから」との回答しかないと思います。

 それでいいのでしょうか。

 私もそうですが、退席された皆様には、今一度、自分が聞かされていることで、何が御教えそのものなのか、何が作られた言葉なのか、を見極めていただければありがたいです。

 そのような営みを始めたばかりの卑怯者が説教がましく言うのは、非礼極まりないことは承知ですが、どうか、お願いしたいところです。